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PROFILE
プロフィール
たまゆらすずめ
コミュニケーション専門家/クリエイター/デザイナー
佐藤 未来
SATO MIKU
カウンセラー、デザイナー、クリエイターとして活動する傍ら、Udemyでの講師活動も行う。
2020年に立ち上げたたまゆらすずめは「心を動かす瞬間」をコンセプトに活動を開始。
NVCと色を用いた個人セッションには、カウンセラーやコンサルタント、教師や主婦の方まで幅広い層が訪れ、参加者には日々新たな気付きが生まれている。
また、世界最大級学習プラットフォームUdemyではNVCのコースを日本人としては初めてのリリース。
世界中の企業から信頼されている高評価コースのコレクションの1つにも選ばれるなど、着実に評価を集めている。
他者の気持ちを優先することで
幸せになろうともがき続けた1人の女性が、
本当の意味で
自分を生きられるようになったストーリー
息苦しい家庭環境の中で、
懸命に自分の立ち位置を模索した幼少期
1984年生まれ、父の転勤で引っ越しや転校を繰り返し、地元というものを感じることなく育つ。
「俺が、郵便ポストは黒だと言ったら黒なんだ」という絶対的な父。
専業主婦として家族のために生きることがすべての母。
父との折り合いがつかず、距離を取って生きてきた5歳上の兄。
幼少期から、父の言うことを聞くことで波風立てないようにしている家族に疑問を感じていた。
また、親戚の前で母に甘えた際に「そういうの、恥ずかしいよ~?」と言われたことが心に残り、自分の気持ちは内側で消化しようと決意。結果、他者からは「しっかりしてるね」とばかり言われて育つ。
元来器用なタイプで、苦手なこと、嫌いなこともそれが「やらなければいけないこと」であれば、無理をしてでもこなしてしまう。
思春期になると常に「相手にどう思われているか」を意識して過ごすのが得意になっていった。
169cm、32kg。
精神的にも肉体的にも追い詰められた思春期
高校は大好きなデザインの学校に進み、制服や校則の縛りも無く「これで自分らしさを模索したい!」という意欲が生まれていたものの、家庭では両親と兄の言い争いが日常茶飯事に。
しだいに食事をすると胃痛に悩まされるようになり、拒食症に。
MAXの時には身長169㎝、32kgになっていた。
毎日泣いている母を見るのが辛く、「私が学校辞めてついていくから、どこかで2人で暮らそうよ」と持ち掛け、高校を退学して長野へ。
長野では私自身の入院も勧められたものの、母に病気が見つかり手術することになったため、働きながら母を支えたいと考えアルバイトに出る。
両親は1年半の別居の末、また一緒に暮らすことになったが、私の摂食障害は収まらず、過食と拒食を繰り返し希死念慮も増えていった。
その後兄は一人暮らしをはじめ、私はバイトをしながら両親と3人で暮らし、数か月が過ぎた。
繋がりのある家族でありたい。
DVや鬱と過ごした結婚生活13年。
そしてバイト先で出会った男性と、当時19歳で結婚。
摂食障害を抱えつつも、新たな生活に意気込みを持っていた。
結婚願望も、子どもを持つことも全く考えていなかった私が結婚し、子どもを持ったのはなぜか。
他でも無く、相手に必要とされることが嬉しかったから。
相手のためなら何でもしたくなる、自己犠牲の塊だった。
摂食障害になってから止まっていた生理をホルモン治療で誘発し、4年後、奇跡的に息子を授かる。
でも、結婚当初から「なんか変だな、旦那さんからこういうこと言われるのって、普通なの?」と思っていた私は、世の中を知らな過ぎた。
「何となく変」から「やっぱりおかしい…」に変わったころには、夫の転職癖やお金の浪費癖、DVは当たり前に。
それでも「私が頑張ればいつか幸せになれる」と生活費を稼ぎ、家事育児をしていた私。
その頃には無月経どころかパニック障害、鬱、不眠でお薬が手放せない状態。
元夫が「家族」として求めていたのは、私と息子では無かった
思えば幼少期も結婚生活も、「周りがこんな風なのは、私の頑張りが足らないからだ」という思いがどこかにあった。
諦めるのはいつだって出来る、頑張れば必ず報われる、とも。
そのド根性はいつだって、自分の心と身体を極限にまで追いつめていたけど、そこまで頑張れる自分に誇りさえ感じていた。
でもあるとき、元夫が脱サラして義母のためにレストランをオープン。私もそれを手伝うために退職を余儀なくされ、僅かな貯金30万円は全て店のために消えていった。
やがて私へのDVは義母も加担するようになり、私に土下座をさせたり、息子の洋服を500円で買った時には罵倒される始末。
そして「お母さんを楽にして、幸せにしてやることが俺の目標だ」と目をキラキラさせて話す元夫。
それを聞いた時、「ああ、この人の家族は「お義母さん」だけなんだな」と、私は元夫の家族でいることを諦めた。
今思えば、元夫もずっと、家族の愛に飢えていたんだと思う。
そして、母親から認めて欲しかったんだと思う。
私たちのことはずっと、見えていなかったのかもしれない。
これは私が努力して変わる事じゃない、このままじゃ私や息子は命が危ない。ようやく、私は13年間の結婚生活に見切りをつけることが出来た。
離婚後、少しずつ壊れていく、息子と私。
離婚の少し前から、息子の様子はおかしかった。
身体の方も、健康なら絶対かからないような病気にもかかっていて、私はそれが悪化するまで気づきもしなかった。
息子は他者のちょっとした言葉にさえひどく傷つくようになり、立ち上がれなくなった。
次第に、学校から足が遠のき始めた。
友達の言葉がキツイ、教室の空気が嫌だ、周りの大声が怖い、声をかけても無視されている気がする。
学校に聞いても、いじめとはどうも違うようだった。
家では泣き叫びながら暴れ、ゲームやTVの世界にこもる。
私もそれを見て怒鳴ったり、手をあげてしまった。私は感情が抑えられず、家を飛び出したりもした。
当時の私は早朝から出勤。息子は週に数時間は学校に行っていたが、朝の戸締りはすべて息子の役目。
「暖房消してきたっけ。鍵かけたっけ。」
息子は不安が募り、学校から私に電話が来ることも。
「息子さん、戸締りの確認したいようで。今日は帰してもいいですか?」と。
仕事で毎日12時間留守にしていた私。睡眠時間は5時間。
息子の動作が遅れて1分でも無駄にしようものなら、怒鳴ってしまう。
息子と私。
どちらももう、極限まで追いつめられていた。
救急搬送、そして入院。
その頃、私は常に風邪をひいている状態。
毎月、抗生物質を飲んでいた。
休日もフリースクールの見学をしたり、家事と息子のことで頭がいっぱいだった。
だんだんお腹を壊す日が増え、ある深夜、ひどい腹痛で血圧が下がり、気を失いかけた。出産ばりの痛みだった。
息子に救急車を呼んでもらい、そのまま入院。
ストレスと過労で身体がボロボロだったことに、ここでようやく気付いた。
退院後。さあ、今までの生活はもう続けられない。
かといって、なす術もない。
どうしたものかと途方に暮れていたところ、友人が何度も誘ってくれていたワークショップのお知らせが再度、届いた。
だけど開催の前日まで、行く気はなかった。
だって、今の自分に必要とは思えない。
家事しなきゃ、息子を遊びにつれ出したり、楽しくしてあげなきゃ。
だけど、ワークショップ前日の夕方。
理由はないけど、なぜか「行ってみようか」と思えた。
そのまま、友人にメール。
急に参加することにした私を迎えてくれた友人には、本当に感謝している。
初めて、「私」が主語になった日
そのワークショップは衝撃的だった。
質問を投げかけられ、感情などの単語が書かれたカードから、自分にフィットするものを選ぶ。
そのカードが自分にとってどんな意味があるか、自分で考える。
アドバイスをもらうでもなく、自分とただただ対話し、共感するワークショップ。
自分の想いとこんな形で向き合うのは初めてだった。
そして、元夫への怒りがいつの間にか、形を変えていた。
「元夫はひどかった」と、主語が“相手”になっていたものが、主語が“私”に変わっていった。
「私は家族や繋がりを大事にしたかったから、あの結婚生活があったのだ」
そう。結果はどうであれ、私は希望を持って13年過ごせていた。
13年も、希望を持てていたんだ。
13年間という時間が、自分にとってとても有難く感じた。
死にたいと何度も思ったけれど、希望の時間だったんじゃないか。
そう思えたことは、私にとって奇跡のようだった。
そして同時に、淡いピンク色が目の前に広がった気がした。
過去も事実も何も変わっていないのに、こんなにも見える世界が変わるのか。これが、私とNVCとの出逢いだった。
NVC。相手も自分も攻撃しないコミュニケーション。
このNVCに今までにない可能性を感じた私は、学んでいくことを決意。
徐々に、息子との生活でNVCを意識していくように。
その後、息子は学校に復帰。
「人生は自分次第でどうとでもなるんだよ」とまで言えるように。
今の息子は、小さいものまで含めたら、夢は100個あるそう。
そして親である私も夢を叶えるため、会社員を退職。
2020年、起業。
現在は、自分や相手とのコミュニケーションの形を変えることが本当の家族の繋がりを作る方法だということを伝えるため、数か月単位の「NVC×色のサポートコース」を中心に、たまゆらすずめを運営している。
息子とはお互いの目標を見据えながら同志のような家族となり、クライアントさんを導くためのアドバイスも時にもらっている。
PRESENT
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